変革点④ 取引の場: 安心社会 → 信頼社会


Last Updated on 2021年8月21日 by 時代遅れコンサルタント

前回は、仕事を探すためには相対取引から離れ市場取引に身を任せるべきで、そのためには一見簡単な幾つかのアンラーニングを行うべきだ、でもそれができる人が少ないと書きました。今日は、その簡単なことができない根本原因について考えてみます。

頭では会社から離れ市場で職の取引をすべきだと分かっていてもそれができない、その理由は単に「怖い」からです。たとえばtwitterの投稿を見ていると、「思い切って参加してみた」、「ただ“いいね”を押すだけの小心者です」などの発言が見られます。何かを怖がっている様子が窺えますね?

でも、この人たちは参加しているだけマシな方で、世の中にはもっと怖がっている人が多いのです。twitterのような実名を晒さなくても良い場所でもこうなのですから、実名で自分の経歴をさらして市場で職を求めるとなると、なかなかハードルが高そうですね?でも、昔からこの投稿のような発信を続けてきた私には、何が怖いのかがよくわかりません。

どうやら、何か文化的な差のようなものがありそうです。自分が何を「怖がっている」のか、その理由が分からないと市場で職を求めるための対策が打てないので、理由を探ってみましょう

本題に入る前に、一つ質問です。日本人とアメリカ人ではどちらの方が他人を信頼するでしょうか?

ここに、日本人2000人とアメリカ人1600人に、統計数理研究所が行なった質問紙調査の結果があります。それによると、「大抵の人は信頼できると思いますか、それとも用心するに越したことはないと思いますか?」という質問に対し、アメリカ人の47%が「大抵の人は信頼できる」と答えたのに対し、日本人では同じ答えをした人が26%でした。質問はあと2つあったのですが、それらも同じ傾向で、日本人よりアメリカ人の方が他者一般への信頼傾向が強いことを示しています。

この調査結果は、夜道でも安全に歩ける日本と銃社会で暴力的なニュースに事欠かないアメリカ社会を見ていると、直感に反しているように思えます。田舎では鍵もかけない家があることも多い社会で暮らしている日本人の方が他人への信頼感が低いとは、どういうことでしょうか?

その答えは、「集団主義と信頼は両立しない」です。日本は、皆が一致協力してことを成し遂げる集団社会で有名です。戦後の高度成長も、このお陰で成し遂げられました。日本人は、集団のために己を犠牲にして目的を達成するのは他のメンバーを信頼しているからだ、と思いがちです。でも、それなら先程の調査結果はおかしいですよね?

詳しいことは省きますが、実は日本の集団は信頼を前提にして成立しているものではないのです。集団の規律を守れば、効率よく全体目的が達成でき自分にもメリットがある、という前提で日本の集団は成立しているものなのです。この時、集団の目的達成の障害となるのは、フリーライダーの存在です。それを避けるために、日本の集団はなるべく同質(同じ地域、血縁、同じ釜の飯を食った仲間、など)のメンバーで構成され、価値観を共有しています。

この価値観をもとに掟を守り、フリーライダーが発生すると、村八分などの制裁手段を講じます。そうすると、制裁は割に合わないのでほとんどのメンバーが同一の行動様式を取り、効率よく行動することが期待でき安心できます。実は、日本の集団社会は、「信頼」ではなくこの「安心」をもとに構成されているのです。見かけはずいぶん異なりますが、鉄の掟を守るマフィアなどと同じ構成原理に基づいているのです。

アメリカは移民国家で人々の価値観や文化的行動様式の共通性が全く期待できないので、このような集団の構成は期待できません。その状況を放っておくと経済的な発展は叶わないので、制度を中心とした秩序を確立してきたのです。この背景には、同質的な国民国家間の争いが絶えなかったヨーロッパで生み出された、制度をもとにした利害調整の経験の歴史があります。

このような社会では、まず制度への信頼が不可欠です。ただし、この点については法治国家である日本でも当然の前提なので、日本人とアメリカ人の差は出てきません。違いは、制度だけがあって安心がない社会で、人々がどう行動するかです。制度があっても抜け道は必ず存在します。これを避けるためには、ガチガチの契約条項を積み重ねるなどの対応方法が存在します。しかし、現実的には抜け道を探す人は少数で、あまりに厳格な契約書は非効率です。

この時に、多少のことは目を瞑ってもまずは相手を信頼した方が全体的な効率が上がる、という発想が生じます。アメリカ人の方が他人を信頼するというのは、この経験から生まれたものなのです。市場とは、そういう経験を積み重ねて作られたものなのです。

日本では、構造改革のもとで手厚い福利厚生や終身雇用制が崩壊するなど、典型的な日本企業が維持してきた安心社会がどんどん崩壊しつつあります。再就職の面倒も見られなくなってきています。一方で、グローバル化の進展でSNSなどをベースにした情報交換の市場がどんどん発展してきています。この時に、慣れ親しんだ安心社会にとどまったままでいようとすると、相対での再就職以外の道が見つからなくなりつつある訳です。市場に踏み出そうとする場合は、その前に何よりも信頼社会に移行する覚悟を決める必要があるのです。

さて、信頼社会に乗り出そうとした場合、決心だけでは事足らず一つの能力を身につける必要があります。それは信頼検知能力です。これまでの日本の安心社会では、この能力は不要でした。必要だったのは、「誰と付き合うことが最も安心をもたらしてくれるか」という関係性検知能力だったからです。この関係性検知能力を発揮して、できるだけ波風を起こさないように空気を読むことが大事だったのです。しかし、開放的になった世の中で関係性検知能力を使っても、信頼社会に対応できません。どうすれば良いでしょうか?

市場は、信頼社会です。そこでは、自分自身で誰を信頼し、誰と協力するかを決めなければなりません。ここで知られている事実は、情報が少ない中ではまずは人を信頼する高信頼者の方が得をする、ということです。ただし、高信頼者は、他人と協力関係を構築しようと思っていますが、楽観主義者ではありません。最初に人を疑うことはしないけれど他人の行動を慎重に見極め、問題がなければ信頼するのです。

ここで、実験結果が明らかにするのは、一般的信頼が高い高信頼者の方が、他人の行動を正確に予想できるということです。ネガティブ情報に敏感に反応するのは高信頼者で、前向きな経験が検知能力を向上させているのです。

市場に乗り出すためには、まずは人を信頼すると決めて前向きに信頼能力を向上させていくことが求められるのです。twitterでもそんなには悪い人はいないと考え、どんどん発言し変なのに絡まれたらブロックすればいい、などの経験を積むのです。このような文化的態度の転換ができない人が、市場に乗り出せない人なのです。

このような安心社会と信頼社会の差は、日本とアメリカに限られた話ではありません。経済の発展が遅れた南イタリアと進んだ北イタリアとの間でも、差が見られます。こうした2種類の社会がそれぞれに独立したモラルの体系を作り出していることについては、ジェイン・ジェイコブズの「市場の倫理 統治の倫理」に(まだ読みかけですが)詳述されているようです。

以上の議論の詳細に興味がある場合は、山岸俊男、「安心社会から信頼社会へ」、「日本の“安心”はなぜ消えたのか」などを読むと良いでしょう。

ここまでで、市場に乗り出すことの必要性と難しさを説明しました。次回からは、市場が求めるものは何か、それを身につけるには何を考えれば良いか、について説明していくことにします。